作品その後
 かつて、今から30年近く前、およそ10年間、大野建築アトリエで“建築”の修行をさせていただいた。来る日も来る日も朝から深夜まで製図板に向かっていた。製図板は、青春という言葉から抜け出そうとし始めていた私のその時代のすべてであった。
 そのころに設計を担当したRC打ち放しの“作品”が渋谷にある。過日、東京に出張の際、泊まったホテルがその“作品”と目と鼻の先であったのでチェックインのあと散歩がてら見に行った。青春の終わりのすべてを懸けた建築は、時代を経てどのように“成熟”しているのだろうかという期待を持ちながら。
 ところが目の前に現れたのは、無残にも荒れ果てた光景であった。建物は確かにそこにある。だが、敷地内は廃棄物で溢れ、手入れの後も無く、新築の頃の面影は無い。あのお洒落だった施主夫妻は一体どうなってしまったのだろう。塀に目をやると自分が職人たちと一緒にやった小叩き仕上げがそのまま残っている。それだけに、虚しく茫洋たる気持ちを抱かざるを得なかった。

住まいが輝くとき
 「福岡県美しいまちづくり賞」という優れた一般建築・住宅・町並みの設計に対して行う表彰制度がある。私も8年間、この審査委員として末席を汚させていただいている。 審査委員は、画家・写真家・彫刻家・イラストレーター・織物作家・放送局放送部長・新聞社文化部長・県の建築部長と大学の建築の先生という多彩な顔ぶれである。設計者のみならず、施工者・施主が表彰の対象となるところがユニークでもある。
 審査はコンセプト・図面・写真での書類選考の後、現地に行くことになる。応募作品のそれぞれが既に自信作であることを考えれば、この1次審査で8割が篩にかけられるということはこの賞のハードルはかなり高いのだが、2次審査はかなり変則的な角度から切り込む。
 最初に設計者が作品を紹介・説明するのだが、あまり饒舌なのは自画自賛となりマイナス評価となりかねない。2次審査に残った作品であるから建築的に優れているのは当然で、それよりも私たち審査委員の目は、住まい手の住み方に注がれる。
 通常の建築賞は建築作品のみを評価する。
 この「美しいまちづくり賞」の対象は既に人が住んでいる住宅なのだから、「生活感」および「生活観」までもが評価の大きな要素となりうる。
 つまり、その住まいを如何に住みこなしているか、ということにかなり評価のウェイトを置く。新築間もない住宅で、あらぬ所にあらぬ物が放り出されている住まいもある。
 何も無ければさぞかし素敵な空間なのにと思う。片付いていれば良いというものでもない。人が生活しているのだから、その人が生き生きと空間を使いこなしていることにこそ意義がある。それを私たちは見たい。
 建築作品の評価だけであれば審査委員も建築評論家だけでよい。多彩な職業の人が審査委員である意味はここにある。住まい手が住まいを住みこなせない場合、責任の一端は建築家にある。ある時、別の審査委員と評価が分かれた。彼はこう言った。「これは特殊解だよな(だから、賞の対象からはずす)」しかし、建築家に施主が設計を依頼した時点で既に特殊解を求めているのだと思う。その特殊解に住まい手が見事にマッチした時に、初めて住まいが輝くのだ。

(独白)
 人が住んでいる家にどかどかと大勢上がりこみ、ああだこうだと勝手なことを言う。いらぬお世話だよという声が聞こえてくるような…。